みなさまの声
オープンからこれまでにいただいたアンケートより
館内に設置しているアンケート用紙の裏面に記入してくださった方々の「災害の体験談」や「復興への想い」をご紹介いたします。ご記入いただいた皆さま、ありがとうございました。
地震の後も水害など災害が多いですが、他の被災地と共に復興が進んでほしいと思います。
(新潟市北区/30代/会社員/男性)
中越地震時、私は長岡技大にいました。まさかあんな大きな地震がくると思っていなくてとても驚きました。ゆれが収まってから新潟に帰りましたが、与板の停電で信号もついていなくてとても大変でした。
明けた月曜、避難者対応で長岡警察署近くの明徳高校、新幹線の脱線が見える小学校の2ヶ所に来ました。避難所の環境の悪さが身にしみました。
日本は地震大国なので、いつ何時も地震に備えるべきだと痛感しています。
(新潟市西区/30代/公務員/田村 智道様)
災害のつらいきおくも希望も未来へと共有していくべきだとおもいます。がんばろーう、日本。
(長岡市/10代/中学生/女性)
じしんはとてもこわいものだとおもいました。ぼくはまだちいさいけれど、みらいへつたえていきたいです。ひさいした人もふっこうにむけてがんばってください。がんばろう日本。
(長岡市/10歳未満/小学生/男性)
昨春、千葉にて被災しました。当方の地域は液状化が起こり、停電がくり返された程度でしたが、今も東北では大変な思いをされている方が沢山いらっしゃいます。
地震は今後もとめることはできず、我々はただその被害を最小に抑えるのみです。その中で、長岡市や宮城・岩手などの経験を伝え、次にいかしていくことが重要です。
思い出すことは必ずしも前向きにできることではなく、ただただつらいだけのこともあるかと思いますが、でき得る限りの記憶を保存し続け、これからの世代に伝え続けていって下さい。
少しでも災害に強い国となっていくよう祈願します。
(千葉市/20代/会社員/男性)
いとこと家でごはんを食べていたら急にゆれた。電気が消え、まっくらだった。あいにく父が会社でいなかった。すぐ外に出たけど、はだしで足が冷たかった。そしてとてもこわかった。
(十日町市新座/10代/小・中学生/女性)
今、日本中が被災という中、このようなスペースを作って頂いてありがとうございます。
私が住んでいる沼津は、地震が起きたら、津波と富士山の噴火の可能性もあるので、とても怖いですが、長岡(地元)がこれだけ復興したという事実が大きな勇気と希望をくれます。
今日、ここに来て改めてそう感じました。
だから、元気になった長岡を見れて一安心と、とても喜ばしく感じています。
長岡、ありがとう!!
(静岡県沼津市/30代/主婦/中村陽子様)
ぼくは、じしんの時2才でした。あまりきおくがありませんが、ここにきて、とてもひがいが大きかったことが、わかりました。
(長岡市/10代/男性)
中越大震災の時にぼくは震源地の近くの温泉に入っていました。そしてゆれが始まった時にふろの水はものすごいゆれて、その波にのまれてなかなかふろから上がれなかったのを覚えています。(5さいぐらい)
ふろから上がると花びんなどもいっぱいおちていました。そして帰る時にふみ切りがあがらず車がじゅうたいしていました。ところどころ道路がひびわれていました。家に帰るとタンスなどがたおれていたので車の中でねました。じしんは本当にこわいとこの頃に知りました。でも今では長岡はもとどおりでよく復興できて良かったです。
がんばろう日本!!
(長岡市/10代/中学生/T・K様)
毎日、長岡から小出へ通勤していました。土曜日の出勤が検討されていたものの、結局中止になりました。もし出勤していたら自分が死んでいたかもしれません。
(長岡市/50代/会社員/男性)
当時いろんな県外の友人が助けてくれました。こうゆう所にくるとよみがえり涙が止まりません。そのお返しを3.11~やっています。
(長岡市/50代/会社員/女性)
越後川口サービスエリアのガソリンスタンドで被災しました。
24日の朝から手でポンプをまわして給油をした時の地元の人の顔は「ガソリンがあってよかった」を思いきり表現していてステキでした。
10回まわして1リットルしか出ないのを7000リットル以上、3日間で給油して「暗くなったらアブナイから来ないでね」「まだまだ地下タンクにガソリンはあるから安心してね」など声をかけつづけていました。あの時をのり切った自分を含めたスタッフみんな、さし入れをくれた人々等に必ずすてきな未来がやってきますようにと願わずにはいられません。
自分はスタンドで給油していましたが、災害の時は「まず3分生きのこる」「3時間そして3日間生きのこる」そのためにそれぞれの立場でできることをするが基本だと思います。そして、活断層がどうとかではなく「日本にいればどこでも大きな地震はおこるんだ」と思っていた方が本当の防災につながると考えています。
(長岡市/40代/自営業/男性)
航空写真を見て、当時の様子を思い起こしました。
1ヶ月近くライフラインが復旧せず大変であったこと。勤務校(小学校・南魚)の地域の人々の協力、そして居住地の避難場所…などなど思い出しました。本当に多くの皆さんからの支えに感謝です。今、居住地(小千谷市岩沢)より長岡へ移り、居をかまえています。日に日に新たに、一歩一歩です。
(長岡市/60代/小島正一様)
自分は父さんと姉ちゃんとバドミントンのラケットを買いにいっていて、とつぜん地震がおきてびっくりして、テニスのラケットがいろいろ落ちてきて外に出るとコンクリートが割れていて、家に帰ってみれば、本棚もたおれているしとても大変でした。でも、もっと大変な被害なあっている人もいて、まだ自分は救われた方だと思いました。自分は、こんなしせつがもっと増えて、もっと人がくればいいと思っています。
(長岡市/10代/中学生/男性)
2004年10月23日(土)わたしは部屋で弟と一緒にいました。弟はテレビを見ていました。わたしは絵をかいてました。そのときじしんがおきました。びっくりしてとっさに机の下にかくれました。怖くなってママのとこに行きました。家族で外にひなんしました。夜は車ですごしました。そのあとはまったく覚えてません。星がきれいだったそうです。
(長岡市/10代/高校・専門学校・大学生/女性)
阪神大震災を経験したことがあり、かなり辛く今でもまだ辛いです。地震に関する情報にふれることのできる心の余裕がなく、今少しずつ情報を得てどんなものだったのか知ろうとしているところです。
地震がトラウマになってしまって、中越地震以降、地震ネタに関わることが一切できませんでした。
少しずつ過去を知る為にこういう記念館みたいなものがあり、とても良かったと思います。
私がいつかこのトラウマを乗り越えられた時は、中越地震や他の震災についてゆっくり知識を得たいと思います。
(長岡市/30代/主婦/女性)
地震当時は夕食の仕度をしていました。祖父が腰を抜かしてしまい、外へ移動させるのに一苦労でした。子供の頭のすぐ上にテレビが落ち、食器や玄関のくつ箱が倒れ、足元に散乱してしまいました。スリッパをはいて歩いて、子供を背中におんぶし、揺れる中、必要最小限のものを持って家を出ました。夜中に震えながら横になったのを覚えています。
(長岡市/40代/主婦/女性)
私はまだ赤んぼうで、しんさいのことは母から聞きました。もっといろいろ調べたいなあと思いました。理かいがかなり深まりました。
(長岡市/10代未満/小学生/女性)
東日本大震災の起きた年の夏、ボランティアに行きました。二泊三日、石巻市でひたすら側溝のどろかき。作業が完了したのは本当に町の一区画にすぎません。それでもそこに、水が流れた時、メンバーと住民の方と一緒になって喜び合いました。しかし、その中で呟かれた「これが始まり」という言葉にはっとさせられました。
インフラ整備、大きなゴミの片付けといったものなどは、もちろん大切なこと、必要なことです。でもそれ以上に、「生活を復興させること」は細かなサポートが必要で、何より住民の方一人一人の力が大切なのだと感じました。
今後も何らかの形で力になれればと思います。
(群馬県高崎市/20代/大学生/女性)
私は高校まで佐渡に居たため、中越地震は佐渡で経験しました。当初は新幹線事故や山古志の話題が多く報じられていましたが、しばらくすると少しずつニュースで取り上げられることもなくなり、被災した地域や人々はどうなったのだろうかと思うほどでした。特に私が県外に出ていた時期には、その話題すら忘れられた様な感覚でした。
春に長岡に移ってきたので、折角の機会だからとこちらに参りました。短い時間ではありましたが、地域の現状や人々の息吹を感じられるような展示で良かったと思います。アオーレでも「温故知新」の精神が示されていましたが、長岡・中越が経験した過去を語りつぐ施設として、これからも発信し続けていただければと思います。
(長岡市/20代/会社員/男性)
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